LOGIN北の山道から現れた商隊は、ゆっくりとした速度で辺境へ近づいてきた。
慌てる様子はない。 威圧する気配もない。 だが、油断もしていない。 その歩みは、まるでこの土地の状態を測るかのようだった。 先頭の荷車には、銀色の狐が描かれた旗。 風に揺れるその印は、派手ではないが、妙に目を引いた。 市場の端で荷を運んでいたヨハンが、その旗を見て小さく呟く。「……来たな」 ガレスが横で荷を下ろしながら言う。「なんか、嫌な感じだな」「わかる」 理由は説明できない。 だが、町の人間としての勘が働いている。 “楽そうな話を持ってくる連中は、たいてい後で面倒になる” そんな経験則が、身体のどこかに残っているのだ。 門前で監査三日目の朝、ロイエン副使は、昨日よりも早く帳場へ現れた。 まだ町の朝仕事が完全には始まっていない時刻だった。 井戸には最初の桶が下ろされ、炊事場では火が入り、北口中継場の夜火は朝の光の中で細く揺れている。 帳場では、ルイスが昨日の監査記録を清書していた。 フェルナー監査官の質問。 ロイエン副使の発言。 豆札制度への確認。 小口前借り制度案への指摘。 市場での聞き取り。 証人保護手順への要求。 それらを一つずつ整理していたところへ、扉が叩かれた。「朝早くから失礼」 入ってきたロイエンは、にこやかな顔をしていた。 けれど、その笑みは昨夜までとは少し違う。 柔らかい皮を一枚かぶせているだけで、内側の苛立ちは隠しきれていなかった。「本日は、証人への聞き取りから始めたい」 ルイスの筆が止まった。 レティシア・エーヴェルシュタインは、机の向こうで静かに顔を上げる。「フェルナー監査官は?」「まだお支度中です。私が先に確認しておきます」「では、フェルナー監査官がお揃いになってからにしましょう」 即答だった。 ロイエンの笑みが少し薄くなる。「副使である私に、確認権限がないと?」「あります」「では」「証人聞き取りは、監査官、副使、領内責任者、帳場記録官の立会いのもとで実施する。昨日お渡しした手順書にそう記しています」 ロイエンは、少しだけ首を傾けた。「手順書は、そちらが作ったものです」「はい」「王太子府の監査手順ではありません」「では、王太子府の証人保護手順をご提示ください。それと照合します」 帳場の中が
監査二日目の朝は、雨の匂いがした。 空はまだ降っていない。 けれど、北の山並みは灰色に沈み、町の者たちは誰に言われるでもなく、荷へ布をかけ始めていた。 王太子府の監査使が来ている。 その事実は、町の空気を少し固くしていた。 それでも井戸は回る。 豆は量られる。 鍛冶場では炉に火が入る。 中継小屋では、修理途中の薪置き場に新しい屋根板が打ちつけられている。 レティシア・エーヴェルシュタインは、帳場の窓からその様子を見ていた。 昨日、ロイエン副使は言った。 ――辺境で独自の権力基盤を作っているようにも見える。 火事で人が集まったことすら、そう言い換えた。 ならば今日も、彼は同じことをするだろう。 豆札を見れば、民を管理していると言う。 小口前借り制度案を見れば、私的な金融支配だと言う。 証人保護を見れば、証言を隠していると言う。 来る刃の形がわかっているなら、受ける準備はできる。「閣下」 ルイスが紙束を抱えて入ってきた。 目の下は相変わらず薄く黒い。 けれど、昨日より顔は落ち着いている。「豆札制度の記録、小口前借り制度案、借金聞き取り記録の公開範囲を分けました」「見せて」 レティシアは受け取り、一枚ずつ確認する。 豆札制度は、公開可能。 改ざん未遂記録も、名前を伏せれば公開可能。 小口前借り制度案は、まだ仮案。利用者名は出さない。 借金聞き取り記録は、証言者保護のため原則非公開。概要のみ提示。「いいわ」 レティシアは頷いた。「穴があるところには、穴があると書いてある」「はい。未確定、仮運用、要検討……
閲覧記録に、二つの名が並んだ。 ユリウス・フェルナー。 バルド・ロイエン。 それは、ただの署名ではない。 王太子府の監査使が、いつ、誰の立会いで、どの記録に触れたのか。 その最初の線だった。 ルイスは、その二つの名を見た瞬間、喉の奥が少し乾くのを感じた。 王都の役人が、自分の差し出した閲覧記録に名を書く。 つい最近までなら、考えられなかったことだ。 こちらが問い詰められる側。 こちらが見られる側。 こちらが頭を下げる側。 そう思っていた。 だが今、帳場の机の上では、王都の監査官もまた記録される側に入っている。 ルイスは、手元の紙束を整え直した。「こちらが、銀狐商会との試験取引第一便に関する記録です」 声は、思ったより落ち着いていた。「契約条件、取引数量、受領対価、町内配分、町荷車屋および荷運び組の参加記録を分けております」 フェルナー監査官は、黙って紙束を受け取った。 最初に契約条件を読み、次に数量表、最後に配分表へ目を通す。 速いが、雑ではない。 必要な場所で指が止まり、数字の端へ目が戻る。 紙を見ることに慣れている男の動きだった。 一方、ロイエン副使は椅子に深く座り、少し斜めの角度から帳場の中を見回していた。 棚。 封印札。 壁の現場図。 豆札一覧。 記録机。 そしてルイスの手元。 彼は紙だけを見ていない。 穴を探している。「銀狐商会との取引は、王太子府への事前許可を得ていないようですが」 ロイエンが、ふいに言った。 柔らかい声だった。 だが、その言葉はまっすぐ刃になっていた。
王都からの正式な先触れが届いたのは、翌日の昼過ぎだった。 その時、レティシア・エーヴェルシュタインは中継小屋にいた。 火災から数日。 焦げた西側の壁は仮板に替えられ、薪置き場は三つに分けられつつある。まだ完全ではないが、少なくとも昨夜は三つの火が並んで灯った。 弱い火だった。 けれど、三つあった。 その事実だけで、町の者たちの表情は少し違っていた。「そこ、薪を積みすぎるな。上までぎっしり積んだら、また燃えた時に逃げ道がねえ」 ガレスが若い荷運びに声を飛ばす。「でも、少ないと夜に足りませんよ」「だから三つに分けるんだろ。ひとつに詰め込むな」 横でヨハンがにやりと笑った。「お前、もう完全に火の番頭だな」「うるさい」「いいじゃねえか。出世だぞ」「火事で出世したくねえよ」 二人のやり取りに、周囲から小さな笑いが起きる。 レティシアは、その笑いを聞きながら修理状況を確認していた。 油の染みた土は削り取った。 焼けた木片も、証拠として一部を保全した。 白蔦焼印の木片は、すでに封印三号として帳場の証拠棚に置かれている。 あとは、新しい薪置き場の屋根と、馬を落ち着かせるための柵。 少しずつ、元に戻っている。 いや、戻しているのではない。 作り直している。 そう思った時だった。 南道の方から、馬の蹄音が聞こえた。 速い。 町の者たちが顔を上げる。 やがて、砦の兵が一人、息を切らせて駆けてきた。「閣下!」「何?」「王都から正式な先触れです。王太子府の印があります」
エドガル・ヴァイスナーは、王都で最も嫌う音がある。 怒号ではない。 剣戟でもない。 民衆のざわめきでもない。 紙をめくる音だ。 薄い紙が一枚、また一枚とめくられていく音。 書庫の奥で、誰かが古い記録を掘り返している音。 それは、彼にとって剣より厄介だった。 剣なら防げる。 怒号なら受け流せる。 噂なら別の噂で塗り潰せる。 だが、紙は違う。 古い紙は、黙って待つ。 誰かが見つけるまで、息を殺して残っている。 そして一度見つかれば、過去の言い訳を今日の机の上へ引きずり出してくる。 王都ヴァイスナー家分邸の書斎で、エドガルは報告書を握り潰しかけていた。 白蔦会の仮倉庫。 北方旧所領の地図。 香油瓶。 王都紙。 白蔦の小印。 中継火に関する紙片。 そして―― エドガル様確認済。 馬鹿な。 彼は声には出さなかった。 誰がそんな紙片を残した。 誰が、そんな杜撰な言葉を書いた。 あれは自筆ではない。 もちろん、自筆であるはずがない。 だが問題はそこではなかった。 自筆ではないから無罪、などという甘い話ではない。 第二王子ルシアンは、そういう男ではない。 あの地味な王子は、紙片一枚で人を斬らない。 紙片の周囲にある記録を集め、物の流れを並べ、関わった人間の足跡を拾い、最後に逃げ道を塞ぐ。 そういう相手だ。 そして厄介なことに、辺境にも同じことをする女がいる。 レティシア・エーヴェルシュタイン。 王太子の婚約者だった女。 切り捨てられ、北方旧所領へ送られたはずの女。
王都の朝は、まだ少し肌寒かった。 空は薄曇りで、王城の尖塔は灰色の光をまとっている。貴族街の石畳には夜露が残り、馬車の車輪が通るたびに、濡れた音がかすかに響いた。 第二王子ルシアンは、王立書庫の奥で短い報告書を読んでいた。 辺境から届いた、中継小屋火災の一報。 薪置き場から出火。 油布片。 白蔦焼印木片。 種火付近の別火種。 中継機能は限定的に維持。 夜火三箇所、仮復旧。 最後の一文に、彼はしばらく目を止めた。 燃やされたのに、火は三つに戻った。「……あの土地は、よく踏みとどまる」 独り言のように言うと、近習のカイルが小さく頷いた。「現場で修理まで始めたようです」「火をつけた側からすれば、面白くないだろうな」「でしょうね」 カイルの返事には、少しだけ苦さがあった。 彼はつい先日、療養院でベルナール・ロックと接触している。 そして、ベルナールが残した震える一文を持ち帰った。 箱は若君へ戻した。私は中身を決めていない。 まだ断定には足りない。 しかし、王都と辺境を結ぶ線としては十分すぎるほど重い。 ルシアンは報告書を閉じた。「白蔦会の仮倉庫は」「押さえています」「ヴァイスナー家分邸の近く、だったな」「はい。表向きはランベール香房の保管部屋です。香料商の倉庫という扱いで借りられていました」「香料商か」 ルシアンは、ほんのわずかに目を細めた。 香木。 香油。 王都紙。 白蔦会。 辺境に届いた空箱の香りと、王都の倉庫の香りが、同じ線の上にある。